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広島城

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かつての広島城の広さ

広島城は内堀・中堀・外堀の三重の堀と、西側を流れる太田川に囲まれていました。東西南北は約Ⅰキロ、広さは90万㎡を誇る大城郭でした。これは、マツダスタジアムの約25個分の広さです。

※マツダスタジアムの広さは、建築面積(24,010.29㎡)+グラウンド面積(12,710㎡)で計算。

現在の広島県庁・広島市民病院・基町高校・基町小学校・白島小学校・グリーンアリーナ・こども文化科学館がある場所は、かつては広島城だった場所です。

城内中心部の本丸・三の丸には城主が執務や日常生活をおくる本丸御殿や城主一族の屋敷などが設けられ、その他の区域には役所や蔵、大身の侍の屋敷が立ち並んでいました。

かつての広島城の広さ

かつての堀の幅・深さ

外堀・中堀

幅:約20m

深さ:約2m

※ただし、北側の外堀は幅35.5m、深さ2.7m

内堀

幅:約30m~104.4m

深さ:約3m

かつての堀の幅・深さ
広島城の堀の幅・深さ
安芸国広島城所絵図(国立公文書館蔵)記載のデータから計算

本丸御殿(本丸上段)の広さ

約16,530㎡

かつての櫓の数(天守・小天守を除く)
※『広島藩御覚書帖』による18世紀前期の状況

本丸

二重櫓6・平櫓6・御門櫓2・長櫓(多聞櫓)3・走櫓(小型の多聞櫓)6

二の丸

二重櫓1・平櫓1・御門櫓1・長櫓2

三の丸

二重櫓6・平櫓8・御門櫓3

大手(外郭全体)

二重櫓20・平櫓14・御門櫓6・櫓台3(=災害で失われた櫓:二重櫓2・平櫓1)

※ただし、北側の外堀は幅35.5m、深さ2.7m

かつての櫓の数
安芸国広島城図(当館蔵)多くの櫓が設けられているのが分かる

現在の城趾面積

118,019.83㎡(史跡指定面積)※マツダスタジアムの約3個分

本丸・二の丸 約5.1万㎡
内堀 約6.7万㎡

復元天守閣データ

着工 昭和32年(1957)10月20日
竣工 昭和33年(1958)3月26日
総事業費 36,116千円 ※地質調査費・設計監理費等を含む。
構造 鉄筋コンクリート造 五層五階
高さ 天守台を含めて:39.0m ※天守の一番上にある鯱瓦も合わせると、約40m。
天守のみ:26.6m
延べ床面積 1,359㎡
展示室面積 約997㎡
建築面積 約354㎡ ※一層の面積
敷地面積 21,704.75㎡ ※本丸上段の面積

二の丸復元建物データ

着工 表御門・御門橋:平成元年(1989)6月
平櫓・多聞櫓・太鼓櫓:平成3年(1991)12月着工
竣工 表御門・御門橋:平成3年(1991)12月28日
平櫓・多聞櫓・太鼓櫓:平成6年(1994)8月31日
総事業費 約15億円
規模

表御門

  • 高さ:10.61m
  • 幅:11.46m
  • 奥行き:6.36m
  • 建築面積:100.36㎡
  • 延べ床面積:79.64㎡

御門橋

  • 長さ:28.867m
  • 幅:6.6 m

平櫓

  • 高さ:7.758m
  • 建築面積:119.34㎡
  • 延べ床面積:107.98㎡

多聞櫓

  • 高さ:5.126m
  • 建築面積:333.93㎡
  • 延べ床面積:333.93㎡

太鼓櫓

  • 高さ:10.600m
  • 建築面積:76.37㎡
  • 延べ床面積:95.22㎡

平櫓・多聞櫓・太鼓櫓を合わせた長さ

  • 88.685m

堀川浄化事業データ

堀川浄化事業とは

元々三重になっていた広島城の堀は、近代に入ってから埋め立てが進み、戦後内堀を残すのみの姿になりました。
昭和30年代の急激な都市開発に伴って地下水位の低下・水質の悪化が進み、何度か対策が取られましたが、十分な効果が得られませんでした。

そこで、導水路と流出路を建設し、本川から水を引き入れて内堀を循環させることによって水質改善をめざすこととなり、工事が行われました。
内堀の水は3日半で循環し、再度本川に戻されています。
なお、この工事に伴い、内堀は準用河川の指定を受けています。

堀川浄化事業
着工 平成元年(1989)
竣工 平成5年(1993)10月7日
総事業費 国費:640,000千円
市費:1,302,200千円
計:1,942,200千円
準用河川指定 内堀及び流出路:平成2年(1990)7月7日
導水路:平成6年(1994)3月31日
現在の内堀の面積 約70,000㎡
水深 約1m
内堀の水量 約7万t
導水路の長さ 700m
出水路の長さ 520m

史跡内に残された石垣に関する数字

※平成元年(1989)に行われた調査による

二の丸と本丸に使われている石垣石材の個数

31,781個

刻印がある石の数

214個に39種類の刻印が確認されている。

矢穴がある石の数

1,244個

※矢穴とは石を割る時のノミの痕跡

カキやフジツボ、ヘビガイの殻がついている石の数

35個

※うち、カキ殻がついている石は26個

本丸

広島城で最も重要な郭である本丸は北側の上段と南側の下段に分けることができます。上段には城主の居館である「本丸御殿」が設けられており、その北東角には二基の小天守を従えた天守がそびえていました。一方、下段には広い馬場が設けられ、土蔵が建ち並んでいました。

現在は当時の本丸御殿の様子をうかがうことはできませんが、かつては本丸上段全域が多くの殿舎で埋め尽くされていました。それらを大別すると、南側から表御殿・中奥・奥向きに分かれます。表御殿は城主と家臣の対面の儀式が行われた場所で、その広間は本丸御殿中最も格式の高い書院造りでした。中奥は、城主が日常生活と藩政を行う場所であり、諸役人が詰めて執務する諸座敷も連なっていました。奥向は城主の私邸で、御殿女中が居住する長局も設けられていました。

本丸は内堀に囲まれて守られており、そこに入るには南と東に設けられた土橋を渡り、中御門・裏御門を通るしかありませんでした。門は戦いになった時には敵が攻め寄せてくる場所なので、門の内・外側に方形の空間を設け、「敵が直進できない」「門の前に来た敵を四方から矢を射ることができる」などの工夫がされました。これは「桝形」と呼ばれるもので、中御門と裏御門にも設けられていました。

安芸国広島城図(当館蔵)より 本丸と二の丸
安芸国広島城図(当館蔵)より
本丸と二の丸

二の丸

広島城の二の丸は「馬出(うまだし)」としての性格を持っており、これが特徴の一つとなっています。「馬出」とは、郭への入り口である「虎口」を敵の攻撃から守り、味方の兵士の出入りを確保するためのものです。広島城二の丸の場合は、本丸の虎口である「中御門」を守る馬出です。

二の丸は本丸とは土橋で、東側にあった三の丸とは御門橋で繋がり、各々とは独立した形で存在しています。敵が本丸内に攻め込もうとした場合、御門橋を渡って、表御門を破って二の丸を突破した後にさらに土橋を渡っていかねばならず、二の丸の防衛上の重要性がうかがえます。

二の丸内には門や櫓のほかには御殿など重要な施設はなく、その東側に番所・馬小屋・井戸などがあるのみでした。西半分は空き地になっており、戦時において出陣する兵の集合場所であったと思われます。

安芸国広島城図(当館蔵)より 本丸と二の丸
安芸国広島城図(当館蔵)より
本丸と二の丸

広島城内の近代遺構

廃藩置県の勅令が出された明治4年(1871)、広島城全域は兵部省(のちに陸軍省)の管轄となり鎮西鎮台第一分営が、同6年(1873)には第5軍管広島鎮台が置かれ、本丸上段に司令部庁舎が設けられました。さらに明治21年(1888)、広島鎮台を母体として第5師団が置かれています。

それに伴い、旧城内には歩兵第11連隊・野砲兵第5連隊・輜重兵第5連隊など第5師団隷下の部隊が駐屯したほか、陸軍病院や兵器部など全域に軍事施設が設けられていきました。日清戦争以降戦地へ兵士を送り出す兵站基地となっていた軍都広島の中心としての役割を果たしたのです。なお、本丸上段にあった司令部庁舎は、明治27年(1894)の日清戦争時に大本営本館として利用された後に史跡として保存されたため、明治29年(1896)に新庁舎が本丸下段に設けられました(現在の広島護国神社付近)。

昭和20年(1945)8月6日の原爆投下時、第5師団は出兵中で、各部隊の兵営には兵員を補充する補充隊が駐屯していました。また本丸内には本土防衛体制のために設けられた中国軍管区司令部が新しく設けられていました。旧城内には他地域から出兵のために集まった兵士も含めて1万人以上の人員がいたと言われていますが、被爆により軍事施設のほとんどが倒壊・炎上し、多くの人命が失われています。

また、昭和20年初頭に設けられた中国軍管区司令部防空作戦室(通称:地下通信室)には、動員された比治山高等女学校の生徒がおり、女学生が善通寺市にあった四国軍管区司令部と福山市にあった陸軍部隊に広島市の被害の状況を伝えたのが、原爆被害を市外に伝えた第一報であったといわれています。

原子爆弾投下時の軍事施設配置図原子爆弾投下時の軍事施設配置図
原子爆弾投下時の軍事施設配置図 昭和20年(1945)8月
『広島原爆戦災誌』を元に作図
  • ①師団兵器部弾薬庫
  • ②広島陸軍幼年学校
  • ③広島逓信局・広島逓信病院
  • ④師団兵器部
  • ⑤師団兵器部弾薬庫
  • ⑥歩兵第1補充隊(歩兵第11連隊)
  • ⑦歩兵第9旅団司令部
  • ⑧広島連隊区司令部
  • ⑨済美学校
  • ⑩偕行社
  • ⑪中国憲兵隊司令部
  • ⑫西練兵場
  • ⑬中国軍管区(第59軍)司令官官舎
  • ⑭広島第1陸軍病院第1分院
  • ⑮広島第1陸軍病院本院
  • ⑯広島護国神社
  • ⑰砲兵補充隊(野砲兵第5連隊)
  • ⑱輜重兵補充隊(輜重兵第5連隊)
  • ⑲広島第2陸軍病院本院

現在の史跡広島城内には、本丸上段にあった旧大本営と下段にあった防空作戦室など、かつてあった軍事施設の痕跡を見ることができます。詳しくは「広島城跡公園の巡り方マップ」をご覧ください。

天守閣物語

今は大天守のみの姿ですが、江戸時代までは三重三階の小天守が南と東に配置されており、それらが大天守と渡櫓で結ばれていました。大天守と小天守一基が連結した形式を連結式、小天守二基が連結した形式を複連結式と呼びます。連結式は規模が大きくなるため例が少なく、さらに三重の小天守を二基連結したのは他に類例がない壮大なものでした。

天守はその建築様式によって、古い形式の「望楼型」と新しい形式の「層塔型」に大別されますが、広島城大天守は望楼型です。望楼型とは入母屋造の大きな屋根を持つ基部の上に望楼(物見)を上げたもので、広島城天守の場合二層までが基部、3層より上が望楼になります。なお、層塔型は第一層から同じ形の建物を規則的に小さくしながら積み上げていくもので、姫路城天守がこれにあたります。関ヶ原の合戦後に造られるようになったもので、広島城が築城された時にはまだ登場していませんでした。

安芸国広島城図(当館蔵)より 大天守と小天守
安芸国広島城図(当館蔵)より
大天守と小天守

外壁については、白漆喰の壁の一部を黒い板で覆う「下見板張」と呼ばれる仕上げがされています。漆喰は風雨に弱いため、風雨にさらされる部分を下見板で保護しているのです。豊臣秀吉の大坂城をモデルにしたと言われています。広島城では大天守・小天守のみならず、城内に設けられた各種櫓も下見板張りになっており、広島城の特色の一つでした。

明治時代に入ってから、役割を終えた広島城の建物は徐々に失われていきました。天守についても早い段階で小天守が二基とも破却されましたが、大天守と渡櫓の一部は残されました。明治27年(1894)には大正天皇(当時皇太子)、大正15年(1926)には昭和天皇(当時皇太子)が天守閣に登っています。

被爆前の大天守と渡櫓の一部 東南東から 明治時代末期~大正時代初期 個人蔵
被爆前の大天守と渡櫓の一部 東南東から
明治時代末期~大正時代初期 個人蔵

明治4年(1872)以降、広島城全域が陸軍の用地となったため、天守の管理も軍が行っていましたが、昭和3年(1928)に管理が広島県に移りました。それに伴って一般公開が始まり、同6年(1931)には国宝に指定されています。
しかし、同20年(1945)8月6日、原子爆弾の投下により大天守は天守台の上に崩れ落ち、炎上はしませんでしたが建築材はその場に山積みになりました。しばらくそのままの状態で放置されていましたが、被爆で物資が不足する中で持ち去られ、現在天守の廃材はほとんど残っていません。

戦後の昭和26年(1951)、広島で国体が開かれました。その協賛事業として広島城跡内で体育文化博覧会が行われ、その際に天守台に仮設の天守が設けられました。本物より一回り小さいものでしたが、昔の姿さながらに造られ、人気を博しました。博覧会終了後に取り壊されましたが、本格的な天守の再建に向けて機運を高めるきっかけになりました。

そして、昭和32年(1957)、広島の復興を内外に示す目的で「広島復興大博覧会」が開催されることになり、それを機に戦前のまちのシンボルであった大天守が復元されることになりました。再建にあたっては、国が戦前に作成していた立面図及び断面図が基礎資料とされましたが、木造ではなく鉄筋コンクリートによる再建であったため、内部構造の変更がされています。

復元工事中の天守閣
復元工事中の天守閣

外部の意匠については古写真などが参考にされています。瓦については残されたものがほとんどなく、広島県警鑑識課の非公式の協力により、古写真から形状や寸法の割り出しなどが行われました。屋根の最上部を飾っていた鯱瓦については、写真からは寸法の割り出しはできたものの細部がわからず、同時代の福山城の筋金御門の櫓の鯱が参考にされて造られました。工事は昭和32年(1957)10月20日に着工、翌年3月26日に竣工、準備期間も併せてわずか10か月で完成しました。

模擬天守 南から 昭和26年4月29日撮影 個人蔵
模擬天守 南から
昭和26年4月29日撮影 個人蔵