header

広島城の歴史広島城の歴代城主

江戸時代初期
福島氏の入国と改易

福島氏入国

関ケ原合戦後の慶長けいちょう5年(1600) 10月、徳川家康は関ケ原合戦の論功行賞ろんこうこうしょうを行い、旧毛利領の安芸・備後両国(広島県)は福島正則に与えられることとなりました。福島氏の加増・移封かぞう・いほうは、西の毛利氏を強く意識したものと考えられています。
福島氏入国にあたり、毛利氏家臣の中には広島城の明け渡しに反対する動きもあったようですが、福島氏の先遣隊せんけんたいに明け渡された後、毛利氏は11月末までに退去したと考えられています。正則が広島へ入城した正確な時期は不明ですが、正則の一代記「福島太夫殿御事だゆうどのおんこと」は、翌慶長けいちょう6年(1601)3月のことと伝えています。福島氏入国段階での芸備両国の知行高ちぎょうだかは不明ですが、元和げんな3年(1617) には49万8,223石であったようです。

福島氏について

福島正則は、尾張国海東郡二寺村おわりのくにかいとうぐんふたつでらむら(愛知県海部あま郡美和町)出身の武将で、豊臣秀吉とは親戚の関係にあり、幼少の頃から秀吉に仕えたと伝えられています。正則の名が広く知れ渡るのは、天正てんしょう11年(1583)の賤ケ岳しずがだけ合戦で、正則は一番やり・一番くびの活躍をしました。これにより、正則ら七名は「賤ケ岳しずがだけの七本やり」 として称賛されましたが、正則の働きは他の面々より上とされ、恩賞おんしょうでは別格の扱いを受けました。その後、天正てんしょう15年(1587)には伊予国いよのくに今治城(愛媛県今治市)の城主となり11万石を領し、文禄ぶんろく4年(1595)には尾張国おわりのくに清洲(愛知県清洲市)の城主となり24万石を領しました。
秀吉の死後、正則は石田三成と対立し、関ヶ原合戦では、豊臣恩顧おんこの大名でありながら東軍に属し、先陣を勤めるなど、東軍勝利の功労者となりました。


福島氏家紋

正則の統治と城下町の整備

慶長けいちょう5年(1600) 10月頃から、福島氏は領国経営の基礎固めの作業を進めてゆきます。まず、福島氏は改易かいえき前に毛利氏が収納した年貢の数量を調べその返還をせまりました。また、芸備両国内に残り浪人となった毛利氏旧家臣を調査し、福島氏の家臣となるか農民となるか選択を迫ったとされます。
福島氏は毛利氏と同様に広島城を居城きょじょうとし、領国支配の中心としたほか地域支配あるいは国境の守備のため、小方おがた(大竹市)、三吉みよし(三次市)、東城 (庄原市東城町)、とも(福山市鞆町)、三原(三原市)、神辺かんなべ(福山市神辺町)の6か所に支城しじょうを設置し、有力家臣を配置しました。家臣の配置状況からは、三原城が支城しじょうの中で最も重視されていたことがうかがえます。なお、元和げんな元年(1615)の一国一城令により、三原城を除く5つの支城しじょうは廃城となりましたが、幕府は三原城のみ存続を許可し、その後も存続しています。
慶長けいちょう6年(1601)の秋までには、福島氏は経済的基盤の確立のため、領内の検地を実施し、それに基づき家臣に知行地ちぎょうちを与えました。また、この検地の結果、芸備両国には 900余の「村」が誕生しました。村は郡単位に置かれた郡奉行こおりぶぎょうのもと庄屋などの村役人によって統治され、石高こくだかを基準とした年貢徴収制度が整えられました。また、広島等の城下町並びに宮島・尾道等の経済の要所は商工業者の活動地域「町」として定められ、村と区別されました。農民、商工業者、武士は明確に区別され、近世的な身分制度が確立されました。交通に関しては、福島氏は西国さいごく街道の三原・神辺かんなべ間に今津宿いまづじゅく(福山市今津町)を整えたこと、蒲刈島三之瀬さんのせ(呉市下蒲刈町)に長雁木なががんぎを築き港湾こうわん機能を整備したことなど、陸路・海路の積極的な整備が伝えられています。
この他、福島氏は広島城下の発展のため、城の北部を通っていた西国街道を城下に引き入れ、町人の居住区を拡大したこと、東西 2ヶ所に市を立て、商業の発展を図ったことなどが伝えられています。


小方城(亀居城)広島県大竹市

慶長6年安芸国佐西郡伏谷上村検地帳 広島城蔵

福島氏による広島城普請

福島氏は慶長けいちょう6年(1601) 正月より家臣総出で広島城の普請ふしんを行ったこと、近江国おうみのくに(滋賀県)より石垣普請ふしんの専門家である穴生衆あのうしゅうを雇ったことなどが伝えられています。また、広島城の外郭がいかく部分は福島氏時代に整備されたと伝えられるほか、洪水に備え広島城外周部の川沿いの堤防を対岸より高くしたことなども伝えられています。 福島氏改易のきっかけとなった普請ふしんに関しては、元和げんな3年(1617) の大洪水で破損をした広島城の改修普請ふしんと伝えられます。翌4年4月の段階では櫓台やぐらだい石垣の普請ふしん等が、同年10月末の時点では本丸・二の丸・三の丸のほか惣構そうがまえにおいて普請ふしんが行われていたようです。
広島城跡に関係する発掘調査では、福島氏時代に築造された櫓台石垣等の遺構いこうが確認されており、その実像が徐々に明らかになりつつあります。


護岸工事の検分(想像図)

福島氏の改易

元和げんな元年(1615)に幕府が制定した武家諸法度しょはっとにより、大名の居城きょじょう普請ふしんは幕府への事前の届出が必要となっていました。元和げんな4年(1618)に行われた広島城の普請ふしんに関しても、本来は事前の届出が必要でしたが、正則は事後報告ですまそうとしていたようです。
同5年(1619)4月、正則の無断普請ふしんを知った将軍徳川秀忠ひでただは、これに怒り一旦は正則を改易に処そうとしましたが、他の大名への影響を考慮して、新たに修復した石垣・やぐら破却はきゃく、子の忠勝ただかつ上洛じょうらく等の条件付で罪を許すことにしました。しかし、正則は、諸条件を十分に実行しなかったため、幕府は正則の津軽 (青森県西半部せいはんぶ) への転封・蟄居てんぽう・ちっきょを決定し、広島へ城地じょうち引き渡しの軍勢を派遣しました。広島の家臣団は江戸にいる正則の安否が確認できず、広島城や三原城等にいったん籠城ろうじょうしますが、正則の指示を受け整然と引き渡しました。この時家臣団が取った行動は賞賛され、後に大名改易時の国元くにもと家臣団のとるべき行為・作法として見なされました。その後、津軽への転封てんぽうは信濃川中島 (長野県長野市)等に変更し、正則は10月初めに信濃高井野たかいの(長野県上高井郡高山村高井)へ退去しました。


福島正則の命令によって破脚したと考えられる
広島城本丸東北部の石垣
江戸時代
浅野氏の治世

浅野氏入国

元和げんな5年(1619) 6月、福島氏の改易が決定すると、二代将軍徳川秀忠ひでただは、「中国のかなめ」 である広島に、紀伊和歌山城主の浅野長晟ながあきらを配置することとし、安芸一国いっこくと備後八郡はちぐん、合わせて42万6,500 石を与えました。この加増・転封かぞう・てんぽうにあたっては、長晟ながあきらと徳川家康の娘振姫ふりひめとの婚姻関係が重視されたものと考えられますが、福島氏と同じく、毛利氏に対する牽制けんせいも期待されたと考えられています。
長晟ながあきらは、まず広島城請け取りのための家臣を出発させた後、和歌山を発ち海路広島へ向いました。長晟ながあきらが広島城へ入城したのは、元和げんな5年(1619) 8月8日のことと伝えられています。

浅野氏について

浅野氏は尾張国おわりのくに(愛知県西部)出身の武将です。長晟ながあきらの父長政ながまさは、はじめ織田信長に、後に羽柴(豊臣)秀吉に仕え、豊臣政権では五奉行ごぶぎょうを勤めました。また、浅野氏は早くから徳川家とも親交があり、関ケ原合戦では東軍に属し、その功績によって長政ながまさ嫡子ちゃくし幸長よしなが(長晟ながあきらの兄)には紀伊国きいのくに (和歌山県、及び三重県南部)37万6,000石が与えられました。慶長けいちょう18年(1613)に幸長よしなが後継こうけい無く死したため、備中足守びっちゅうあしもり(岡山県岡山市足守あしもり) 2万4千石の城主として別家べつけを建てていた弟の長晟ながあきらが、家督かとくを継ぎました。浅野氏は、いわゆる外様とざまの大名ですが、元和げんな元年(1615)に家康の娘振姫ふりひめ長晟ながあきらに嫁いでおり徳川家と姻戚いんせき関係がありました。

広島藩の支藩

広島藩では、後継こうけい断絶(お家断絶)を防ぐため、寛永かんえい9年(1632) 、二代光晟みつあきら家督かとく相続の際に、支藩の三次藩が成立し、本藩から 5万石が分与されました。同族で赤穂あこう事件で切腹した赤穂あこう(兵庫県赤穂市)の藩主浅野長矩ながのりに嫁いだ瑤泉院ようぜんいん(阿久里あぐり)は、この三次藩の出身です。しかし、成立の目的に反し、三次藩は五代で後継こうけいが途絶えたため、享保きょうほう5年(1720)に改易となり、その所領しょりょうは本藩に返されました。その後も、分家 (青山内証分家ないしょうぶんけ・広島新田しんでん藩) が創設されましたが、こちらは三次藩とは異なり、公的な支藩としての形式は取られませんでした。

浅野氏の統治

浅野氏による藩政はんせいは、福島氏時代に整備された諸制度を踏襲とうしゅうしたものが多く、それらを補強することで藩制はんせい機構の整備が進められました。福島氏時代に支城が存在した三原、小方、東城の 3ヶ所に家老かろうを配置し、周辺の所領しょりょうと共に一定の支配権を与えて地域支配のかなめとしているのも、その一例と言えます。
浅野氏は、幕末に至るまで基本的には、家臣に俸禄ほうろくとして領地を与える地方知行制じかたちぎょうせいを採用しました。家老かろうを除く一般藩士の場合、領地との関係は年貢徴収権のみに限定されており、主要な町や港は藩の直轄地ちょっかつちとするなど藩が一円いちえん支配を進める方針が取られました。
領内は、 一般農村が「地方じかた」、 広島・三原・宮島・尾道などの城下町・港町が「町方まちかた」と大別され、それぞれこおり奉行、町奉行・宮島奉行・尾道奉行などが統治しました。また、島嶼部とうしょぶ・沿岸部で、水夫すいふ供給地域となった町・村は「浦方うらかた」、塩田は「浜方はまかた」と称され、異なる統治体系に置かれました。
浅野氏は、城下広島を中心とし、領内の主要な経済的要所である宮島・尾道のほか、内陸部に散在する在郷市ざいごういちを結ぶ領国市場を整備し、さらに大坂市場とも密接な関係を築き、商工業の活性化に努めました。江戸後期には、大坂に運んだ米が大きな利益を収めたことから「藝侯げいこうの商売上手」と称されました。


浅野氏家紋

浅野長晟画像(模写)原資料は広島市超覚寺旧蔵

浅野家略系図

城下町の様子(想像図)

浅野氏時代の広島城

広島城は福島氏時代には完成したと考えられており、浅野氏時代にはその構造に大きな改変は無かったと考えられています。しかし、近年実施された発掘調査では福島氏時代以降に構築されたと考えられる櫓台やぐらだい石垣が確認されており、一部の櫓台やぐらだいは浅野期に創設された可能性もでてきました。
このほか、浅野氏時代に編纂へんさんされた記録には、洪水や火災による石垣・建物の破損の記録や、その修築しゅうちくのための幕府への申請記録が数多く確認でき、発掘調査でも修復の痕跡こんせきを示す遺構いこうが確認されています。
浅野氏時代、広島城が戦場となることはありませんでしたが、幕末、元治げんじ元年(1864)の第一次長州戦争、慶応けいおう元・2年(1865・66) の第二次長州戦争では、広島は幕府軍の最前線基地となりました。


長州戦争時の広島(想像図)